先人は思いついた.何らかの物体を厳粛に取り扱うことで,列車の安全を確保することができるということを.

何らかの物体を使うのはよいとして,それを何にすればよいか.鉄道員は話し合った.
案として,テーブル,椅子,ビールジョッキ,数学辞典,穴のあいた金属製円板,などが挙がった.
テーブル,椅子に関しては,運転台に持ち込むのが困難という反対意見が出された.
ビールジョッキは,列車の振動により運転台から転がり落ちて割れる危険性が直ちに指摘された.
数学辞典に関しては,田舎で入手が難しいこと,比較的高価であること,などの難点を指摘する者がいた.
穴のあいた金属製円板は,取り扱いに適していた.他の候補を使うのがバカバカしく思えるほど適しているように思われた.

しかし,鉄道員Aは気付いた.これらよりずっと手軽にどこでも入手でき,かつ安全な物があることを.
「空集合を,使えばいい.」
これは画期的だった.折からの物資不足で,金属もやや不足気味であったのだが,
空集合なら他の候補を使うのがバカバカしく思えるほどコストが全く不要である.Aの案は即採用されることになった.

次の日から,すべての列車は,空集合を持って走ることになった.
これは,素晴らしいアイディアだった.外延性公理により,空集合は世の中にただ一つしか存在しない.
運転士はこの世でたった一つの空集合を駅員から受け取る.終点に着いたら,駅員にそれを渡す.
すべては,うまく行っているように思われた.

しかし,重大な問題があった.鉄道員たちの管理している鉄道は
イ--ロ--ハ--ニ--ホ--ヘ--ト
という7つの駅からなっているのだが,
空集合一個だけでは,一個の列車がイとトの間を行ったり来たりするしかないのだ.
この鉄道の沿線はベッドタウン化が進み,最近乗客が増加しているので,これは不都合だった.
「空集合をただ一つの元とする集合を,使うといい.それでも足りないなら,それと空集合だけを元とする集合を,使うといい.」
これはこの鉄道でも一番の切れ者であるBの提案だった.
Bの提案は即採用された.

この頃には鉄道員たちのあいだでは空集合を0という通称で呼ぶようになっていた.Bの案によれば,
0をただ一つの元とする集合を考えて,面倒なのでこれを1と呼ぶと,それが古き良き0と違うものであるという.
この事実は,直ちに鉄道員たちによって検証された.次にBの案にしたがえば,0と1だけを元にもつ集合を考え,
これを仮に2とか呼ぶと,また新しいものができるらしい.
2が0や1と異なる物であることは,すぐさま鉄道員たちによって検証された.
こうして列車は,イからハまでは0を,ハからホまでは1を,ホからトまでは2を,持って走ることになり,
日々,安全に運行されたということである.
めでたし,めでたし.