簡易日記(2008年4月〜6月)

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6月28日

位相空間 $X$ であって任意の $p\in X$ に対して $X$ と $X\setminus\{p\}$ とが同相になるようなものにはどのようなものがあるだろうか? $X$ が無限次元ヒルベルト空間の場合はそうであることが知られている.自明な例としては $X$ が離散位相をもった無限集合の場合がある.ほかに面白い例はあるだろうか?


6月26日

「結び目と絡み目の練習帖」のような本はあっていいかも.


6月25日

害獣としてのインターネット

研究につかう時間をうばい去ることなど,さまつなことだ.もっと重大なことが,おきているかもしれないのだ.


6月24日

エコバッグは人気だ.普段使いの袋をあえて人気商品として売り出しているのに違和感はあるが,傾向としてはいいと思う.
日本でも県によってはレジ袋を有料にしている.そろそろレジ袋は有料であたり前になってよいと思う.
実際のところ,言わなくてもついてくるという理由で,深く考えずレジ袋をもらっている人が多いであろう.
そして,エコバッグを持つ程度のことで,たいした不便をこうむることなく生活をつづけられる(はず).
そんな話ならまずは無料配布を法律で禁止して,みんなに考えてもらったほうがいいのでは.


6月23日

読書をするのにちょうどよい雨が降った.
読書といえば,数学の本を読むのとまったく同様にノートを取りながらふつうの本を読んでみたいと思うことがある.しかし,実行したことがない.


6月22日

起きているのに意識の遠のいて感じられることがある.
このとき,五秒前のできごとを忘れるし,ノートにとんでもない書き間違いをする.
こういうとき,数学での正常の推論なるものの根拠は何なのであろうかと思うことがある.
横になって一時間ほど休むとこの状態が解消していることが多いが,
休んだあとの状態の方がより正常だと思うべき根拠はそもそもどこに存在するのであろうか?

しかし…それでも僕はこの「正常」を信じて明日も生きてゆく.


6月21日

選言的結論

馬鹿は存在しないか,または,夏風邪は風邪ではないんでしたっけ.


6月20日

すべての明晰さは砂に描いた絵,つかの間のまぼろし.
マルの如きを書いては消し,その輪郭を生ぜしめまた無からしめ,あるいは削り出す.
写像はときに硬ときに鈍にして,その空間のダイナミズムにとどまること無し.
あなたも位相空間論という風狂はいかが? 位相の会会員募集中.
まじめに研究したい人も,趣味でやりたい人も歓迎.


6月16日

finite-dimensional selection theorem の証明を読んだ.
最後に出てくる δ はどれだけ小さいのか.
穏当な例でやっても人間の知っている最も小さな物の長さと人間の知っている最も大きな物の長さとの比より小さかったりするかもしれないが,それは気にしない.


6月12日

まめ知識

今日は理由あってセミナーで被覆次元の説明をした.
平面を小さい開集合で覆うと,どうしても開集合が3枚重なってしまうということを説明した.
それと同じ理由で,石畳の道は,どんな敷き方であっても敷石が3個集まってしまう点ができている.
これ,ルベーグの舗石定理っていわなかったっけ,と思ってぐぐると,がん細胞の集まり方についての話しか出てこない.


6月10日

投稿するところ間違えたの?それともジョーク?というのが arXivの GN にある.
ちなみに GN は General Topology で GT は Geomtric Topology です.

バチカン駅の利用状況は原宿駅宮廷ホームのそれと似ており興味深い.


6月9日

今日はただひたすらに寝てみることにした.一日はたちまち流れ去るものであることを知った.


6月8日

今日は劇を見に行った.僕は小説や漫画を読まないし映画やドラマも観ない.それと論理的なつながりはないが芝居もほとんど見ることはない.自然の草花や精緻な工芸品,対称性の高い図形やビング学派の奇妙な図形に引き込まれる経験はするが,およそ三人以上の人間が関係する話は満足に理解できたためしがない.女性の会話には一つの長いセンテンスの中で次々と新しい人物が登場して出会ったり分かれたり一緒に何かしたりするというものがよくあるがそういう会話にはついていくことを早々とあきらめる.このときには,まるで理解できない講義に適切に質問するてがかりもなく呆然と座っているときとよく似た感じになる.実際に何が分かればその会話についていけるのか見当もつかない.そのわりに集合の集合の集合の集合などが登場している際に,それらの所属関係や包含関係に関する会話にはなんとか食いついてゆけるから不思議なものだ.さて,劇の話にもどろう.今日は劇を見に行った.TAで担当したクラスに劇団員がいたのが事の縁起である.駒場祭のときに最初に見て今回は二回目である.今回は前よりもむつかしい筋の演劇であるように思われた.はじめの三十分ほどのあいだは,すべての台詞が日本語で話されているにも拘らず,なにがおこっているのか,ほとんど絶望的に理解できなかった.前にのべた自分の苦手なパターンにはいりはじめていると感じた.二時間の公演のあいだ,部分的に理解できるやりとりと,何かの伏線が収束しているらしいという感じとがあったが,それらを全体として了解することはできなかった.こう書くと僕は劇のむつかしさのためにその内容がわからなかったようであるけれども,僕にストーリーの含まれるものの理解力がないことを第一の原因と言うほうが,あたっているだろう.すべて見終わったあと,一緒に観劇していたS君が今回の話のすじについて,整理整頓して講釈してくれた.S君によれば,この芝居では四つほどの話の筋が錯綜して進行しており,それぞれ斯斯然然の内容という.斯斯然然の内容はわかりやすい日本語だったにもかかわらず僕にはあまりよくわからなかった.もうどこか理解をあきらめているのが自覚できる.数学をわからない人にむかって「君が数学をわからないのは,わかろうとしないからです」などと言う資格は僕にはもうないだろう.さて,このような僕がこうしてふたたび劇場に足を運ぼうと思ったのはなぜだろうか? それは花が咲いているうちに花を見ておきたいとか,ほたるの飛んでいるうちにほたるを見に行きたいというのと似ている.舞台上では,生身の役者がその表情と全身の運動と自身の発声とにより,それがもたらす会場内の音の反響や振動さえ用いて僕にその存在を主張する.これらすべてが,ふたたび再現されることのないできごとである.これを全身で感じることが僕にとっての観劇の目的である.数学の講義も同様で,レクチャーノートとして記録されるものは,もう死んでしまっているのではないかと思っている.生身の先生が自分の前で講義してくださり,ある種の生命力がそこで疎通されることに講義の最大の価値があると思う.数学の論文やテキストなども書棚にあるうちは死んでいて,それが読まれて理解されたときに一瞬のいのちが与えられるというのが本当ではないか.さて,いささか怪しげな話になってきた.


6月7日

今日はホタルを見に行った.ホタルを見たのは,はじめてだと思う.
自宅からそんなに遠くないところにホタルの住む小川があるというのが意外だった.
ゆっくり点滅しながら飛ぶホタルは,いのちを燃やして飛んでいる.
数学は生命の燃焼とおっしゃったのは岡潔先生でしたっけ.

光の動く様子から少なくとも十匹は飛んでいるらしい.実際には百匹はいるのだろうか.
きれいな小川の前で育った母や,虫の掃いてすてるほどいる(いた)田舎育ちの父にはまるで物足りないらしく,
「こんなものはホタルを見たうちには入らない」ということだったが,なかなかいいものである.
ちなみに父にとってホタルというのは,子供が捕まえても捕まえてもなくならないほど,大量に乱舞しているものであるらしい.
現代のホタルにそれを要求するのは,ちょっと高望みにすぎる.一匹一匹を,ありがたく拝見する世の中である.


6月6日

昼寝をしている間に,夢のなかで論文をよんでいた.
「$f$ と $g$ とは異なる.なぜなら,積分した時の値が明らかに異なるからである.」
というような文章を読んだようなおぼえがあるのだが,一体どういう意味だろう.


6月4日

会費がマイナスとはすごいね.


6月3日

久しぶりに目がさめるトポロジー
位相空間 $X$ の高々 $k$ 点からなる空でない部分集合の全体(に自然な位相をいれたもの)を $\exp_k(X)$ と書く.


6月1日

キミねえ,準同型定理をわかったくらいで自慢されても困るんだよ.

今日は服を買った.


5月31日

巨大数探索は学術研究の域に達しているのか?
いや,実のところ巨大数探索スレを読んで4時まで起きていたことを軽く後悔しているわけですが.

なんかとある論文の「三角不等式により…を得る」とある箇所がどうしても埋まらない.
一見正しそうな雰囲気をただよわせる主張なのだが,どうみても「三角不等式により」なんて
レベルの議論で証明できるとは思えない.「どうせ簡単にでるだろ」と思って
著者が詳細をつめるのを怠ったふしがある.うーむ.結果は成り立ってほしいのだが.


5月30日

ぷはあっ!


5月29日

sino のページの漢字は調べても分からない.そしてコンニャクの日へ.


5月26日

「セットでないノット」

何年前かわすれたS君の名言.何を想像していいのか見当もつかない.
それとはあまり関係ないですが sino のページは漢字の勉強になります.


5月25日

人の生存期間が連結であるという制限は,改めてそれが制限であると考えてみると,なかなか厳しいものである.

進歩はなくとも,いかに精神が転倒しようとも,今日の自分を明日の自分へと確実にバトンタッチしていく以外にはないのだ.
私はご飯を食べるのだ.用も足すし,寝るのだ.


5月24日

京都から鈍行で戻ってきました.
(ここで鈍行を使うことと新幹線を使うこととは,同程度にありうる選択肢としてならんでいます.)
チャンネルあらそいや,食べ物の取り分のあらそい,妻のつくる料理の味への不平,
といった件についての警察への通報が,最近はほんらいの業務にさしつかえるほど頻繁にあるらしい.
これはなにかたいへん深刻な問題があるんじゃないかとおもう.


5月14日

赤い木と黄色い木からできた鉛筆は,そのあと長さが2センチくらいになって,あたらしいのに交代した.
もうそれから,ずいぶんたつ.
今日けずってみて,一回一回にナイフに力をこめすぎていたことに気が付いた.
これからは,草木でもはらいのけるようなつもりで,サッサッとやってみることにする.


5月13日

大定理を使うたびに,その大定理を証明するための巨大なからくりが音を立てて動き出す.
そんな感覚に酔いしれてしまうことがあるのです.
自分で証明したわけでもないのに.

乗ったことのないJR線はどのくらいあったかを思い出してみた.
・新しい新幹線.
・渡島砂原.
・関西空港.
・四国の3分の2くらい.
・博多南.
全部乗ってもいいことはないと思うので放置しています.


5月12日

ねむい.そして,こんな日に管状近傍存在定理の証明をちゃんと追ってる僕はほんとうに何者なんだ.
とりあえず,管状近傍存在定理の証明についての試問に答えられる自信がついたことはたしかだ.
でも試問されたらたぶん逃げます.


5月11日

母の日です.花束を買う人の列ができていました.
僕も買いました.
花はいきものだけに,花束をもっていると,何かどきどきするね.


5月10日

かんがえるよりうごけ


5月5日

僕の毎日けずっている鉛筆がある.
鉛筆というものは,ふたつの木の棒によって,芯をはさんでできている.
その鉛筆は,赤い木と黄色い木とを組みあわせてできている.
赤い木は天性の能力にめぐまれた,いわば天才にたとえることができる.
どうけずっても,そこには光沢のある,すべすべとした面が現れる.
もう,鉛筆などに使うにはもったいないくらいの素質をもった木のようにみえる.
そこにきたら黄色い木はどうだろう.
削っても削っても,おがくずのようなものがぽろぽろ出てきて,
出てくる面は,どうやっても,でこぼこのある粗い面である.
まさに鉛筆界の劣等生にほかならない,と僕はおもっていた.

しかし,最近,黄色い木の様子がちがってきた.
僕のけずり方が,上達したのかはしらないが,数日前から,黄色い木が,
となりの赤い木にもまさるともおとらぬ,つややかな光沢を放ち始めたのだ.
光のあてようでは,こがね色といっても,そうまちがいではない感じなのだ.
この黄色い木は,いまや努力家の秀才にたとえることができる.

さて,赤い木は,どうやってもきれいに見えるものだから,
僕はそんなに注意深くけずってはいなかった.
そこで赤い木を,黄色い木のときと,できるだけおなじように,
しんちょうに削ってみた.

どうだろう,はかなくも,その光沢は赤い木が勝っていた.
黄色い木に肩入れしていただけに,たいへん残念だ.


4月30日

僕のやっている数学はトポロジーの一分野です.
それは大変マイナーなので,僕が所属している研究室にはそれを勉強している人はほかにいません.
任意の他の人をとってくると共通部分が「多様体がでてくる」「位相空間がでてくる」くらいしかないと思う.

「多様体論や微分幾何・代数トポロジーの入門的知識があればそれなりに分かる話」というのが
僕の研究室でのセミナー内容の一つのスタンダードだと思っているのですが,
残念ながら僕の発表はそのスタンダードを満たしません.
そのため,毎回僕の発表のときには,
「きっと関心ないだろうなー,聴衆のみなさま,時間の無駄遣いさせてごめんなさい」
と,心の中ではひたすら平身低頭しています.聴衆の反応がこわいから,黒板ばかり見るようになる.
そして,関心がないだろうなあと思うと,説明に力がはいらなくなる.
これがまた悪循環を引き起こしているのかもしれません.

今日は自分の最近やっていることをセミナーで発表しました.久しぶりです.半年ぶりくらいかもしれません.
まず僕の示したことの背景を理解してもらうための導入をやって,それが存外に長くなってしまい,
それが終わったころには聴衆一同,慣れない話を聴かされてみな疲れてしまっている様子で,
話を続けるのがちょっと申し訳なくなってしまいました.導入が済んだら,絵に描いても説明できるような
一つのトリックについて述べればよかったので,そこから気が楽だったのですが.
導入をしなければなぜそういうことをするのか分かってくれない.でも導入すると疲れられてしまう.
ああ,どうしよ.次回のセミナーは三週間後くらいにめぐってくるらしい.


4月26日

今日のコーヒー屋のコーヒーは濃く出すぎていて,すっぱかった.
こんな味ははじめてなので,どこかで手順をまちがえたものにちがいない.
新米さんがいれたものにちがいない,言った方が彼のためかなと思いましたがいいませんでした.
ここを研究場所につかわせてもらっているだけで十分でございます.
コーヒーが濃かったせいか,数学ははかどった.


4月25日

F先生の講義を聴く.いつ聴いても,プロフェッショナルのわざだと思う.
今日はアカウントの更新のしかたがわからなくなっている外国人の学生(ぼくより年下かも)をうまく手助けできなくて,
そんな自分に失望して,きっと外国人も僕に失望して,そんなふうに考えると,いいことのひとつもない日でした.
せめて,次からはうまく手助けしたいです.僕も外国ではそんな手助けをいくつも受けたはずなんだし.


4月24日

今日はとりあえず病院で薬をもらって寝ました.


4月23日

今日は懇親会だった.懇親会はふだんから話したいけれどなかなか話せないかんじの人と話せるのでよい.
花粉症や酔いとまざってわかりにくかったが,かぜをひいていることがわかった.


4月22日

きのう,マスクを外して一日すごしていたせいだとおもうが,鼻水がとまらない.
まだ花粉は飛んでいる.どうもヒノキ花粉が飛んでいる感じを体感することが僕にはできないらしい.
スギ花粉は飛んでいると分かるような気がするが.すべて気のせいなのかもしれない.


4月20日

今日は完全な独り言とさせていただきます

Finite-dimensional selection をこう使うか…賢い.
で,要は3次元空間がよくわからん


4月17日

セミナーに遅刻してしまった.先輩にノートを見せていただき,なんとかフォロー(したことにする).
チャートもこれだけ大きなものになると,図式化の力を感じる.

そして,考え中のことがはげしくできた気がして,はげしく勘違いしていたことがわかった.
いや,勘違いであって当然だし,むしろ勘違いであってほしかった.
しかし考えがとどこおりぎみだっただけに,動きがあったことはうれしいことだ.


4月16日

曲面結び目はあいかわらず僕にはよくわからない.先輩としてわかったふりをするのがいいのか.
生協に本をさがしにいく.「逆評定は売り切れ 時代錯誤社」とのことだ.逆評定をさがしていたわけではない.

「ボート部大コンパやりますっっ!」と言ってビラをくばっている人の熱意におされてビラを一枚もらった.
もちろんボート部大コンパには出ていない.


4月15日

午前中は調子がわるかった.講義にはでられず.
忘れ物をとりに帰り,今日は大学と自宅のあいだを二往復.
生協にスキャナとトナーカートリッジがとどいていた.
品物はとっくに着いていて,二度も電話したが不在だったとのこと.


4月14日

ひどく,こころの不安定な日だった.アルコールはよくないらしい.
つくばの先生のところに行って短い報告をした.

帰り際,ひょっとして数学には僕はまるで不適格なんじゃないかとおもいはじめた.
きっかけはわからない.が,一月ほどじっと考えても,このていという状況,
数学者であるかぎりは論文を生産して生きていかなければならないという事実は,
わりと客観的な理由にはなるとおもう.そしてなにより期限のきまっている thesis のこと.

とにかく,こうおもいはじめることは,精神が不安定なしょうこなのだが,僕はとりみだして,
就職についてのいろいろを本屋でしらべたりネットで検索したり,をはじめた.
心臓をばくばくとさせ,血眼になって,しらべた.

しかし,夜になって,自分がいかにめぐまれているか,わかっていないのではないか,
という,どこかで聞いた言葉がうちからきこえてきて,何か前向きなみとおしが,わけもなくたちのぼる.
NHKで瀬戸内寂聴さんが源氏物語についておはなしになっているのを見て,また余計に安心感がたちあがった.
(寂聴さんの話は,いわゆる法話ではないけれど,宗教のもっている力かもしれない.)
このように,こころの浮きしずみがはげしくて,僕はふりまわされっぱなしである.
きちんとしたいわれもない安心感というものも,大事なんだとおもう.


4月13日

なんかきつい.なんでもいいから正しいステートメントが出てきてくれ.
その願望がうそ定理のデパート,うそ定理の総合商社だ.


4月12日

母の誕生日祝いの食事にいった.妹がやってきた.食事とか会話とかがややおろそかだった気がする.
数学は数学として,そうでないときはそうでないことができているほうが安心します.僕自身が.


4月11日

僕の知っていることはみんなも知っているという思い込みにもとづいて,気がつくとしゃべってしまうことがある.
そういう思い込みにおちいっているということは,自分の知るかぎりでは,ほとんど誰もおしえてくれない.
なので,できるだけ,気をつけたいと思う.今日はこの点を反省する機会が二つはあった.

明大前で電車にのろうとすると,「車内清掃はいります」と業務連絡があった.
電車にのって,出発すると「車内清掃にご協力ありがとうございました.おかげさまで,だいぶきれいになりました.」
という,ちょっと,へんなアナウンスがあった.

こういう車内清掃はときどきあるのだけど,そのたびに,おもいだすのは,
井の頭線で,僕の目のまえで,げろをはいて電車をおりていった客のことだ.
そのとき僕は3年で,セミナーで遅くなっていた.電車は忘年会帰りのひとでこみあっていた.
かれは東松原に着くちょっとまえで,むらさきっぽいものを車内にのこして,おりていった.
いまおもうと,かれも東松原で降りてから,はくつもりだったのに,ちがいないのだけど.

「三元豚(さんげんとん)」は,三つの品種をかけ合わせたものだから,そういう名前がついているらしい.
いつか,のみ会で話題に出たような気がするけど,しらべるのをわすれていた.


4月10日

神保町でシェーンフィールドの "Mathematical Logic" を買いました.数理の図書館に置かれていないというのもあります.
ロジックのちゃんとした本はぜんぜん持っていなかった.こうした本で勉強することは,いつかするべきことだと思っている.

「現代思想」臨時増刊の「数学の思考」も買った.半年ごとに読み直すとそのたびに新しい発見がありそう.


4月9日

渋谷から三軒茶屋まであるいた.けっこういろいろなものがある.
ピンクビラと落書きは禁止と張り紙のしてある地下道をとおる.
文化祭の買出しにつかうことが多かった(が,自分は一回も買い物にいっていない)金物屋のまえをとおる.
勉強のできそうな喫茶店,万引きは一生の後悔という張り紙のある本屋などの前をとおる.
バスよりも世田谷線でかえった方が安いということに,きづく.
世田谷線があることをわすれていた.世田谷線に乗るのはすごく久しぶりというわけでもない.


4月8日

セミナーのうちあわせ.
はじめて見る後輩が4人ほどいた.
後輩はつぎつぎはいってくる.僕はあいかわらずいる.
僕とおなじ学年の先輩を,いままで僕はどう思っていたかおもいだす.
かえりに正門のまえでサークル勧誘をうける.
新入生あつかいをされるのは,うれしい.


4月7日

院生室の顔ぶれが変わっている.これからは代数幾何の部屋に変わっていくのだろうか?
いろいろなことが僕の知らないうちにすすんでいて,いろいろなことを聞いた,ような気がする.


4月6日

かんがえていて少し予想外の問題が発生すると,僕はくじける.
意気揚揚にして準備万端というときほど,はげしく,くじける.

今日は調布の図書館で,ノートにむかっている最中,とつぜんに,くじけた.
思いつくのも,しばしば,とつぜんだが,くじけるのも,とつぜんである.
残念ながら,回数としては,くじけるほうが多い気がする.

その瞬間というのは黒いペンキがたれてきて,考えが押しつぶされる,ような感じである.
気分おもくるしく,思いつくことも字に書けない.
急速にしめつけられる理性が,ぎりぎりの判断で,「ダメではないかもしれない」とおもう.
次には,この「しめつけ」には,実体などない,まぼろしだ,という理性が立ち上がり,
それは無い,無いものなのだと,僕にいいきかせようとする.
このあらそいのあげく,もう今日はまともには考えられないと,第三か第四かの理性が判断する.
僕は寝るまでのあいだ,論文を整理することにした.


4月4日

昨日はからだじゅうの皮膚のうら側から,えもいわれぬ痛みのようなかゆみのようなものを感じて,ほとんど何もできなかった.
母親の意見なども考慮して,この症状の原因は,つぎのふたつのことであろう,と仮説をたてることにした.

1.気温のわりに,ふとんの枚数がたりなかったため,寝ているあいだの寒さから身をまもるために筋肉がこわばり, この状態がつづいたためにからだじゅうの筋肉がいたんだ.
2.スギの花粉は,注射により耐性ができてきているが,ヒノキの花粉の量がふえてきたため,花粉症の全身症状によって, からだがかゆくなったり,熱をおびてきたりしている.

これから一週間のあいだに,いろいろ提出したり,パソコンで操作したりする必要があるという.
これらを全部ぬかりなく行うことと,体調をおちつけて一定にたもつこと,が大事だと思う.


4月3日

とりあえず明日10時に大学にいるか寝床にいるかが問題ですね.


4月2日

トーラストリックの絵を見すぎたせいかは知らないけれど目が痛い.
「どうせ毎度おなじみの間違いにちがいない.」というようなスローガンは僕には必要だとおもう.
でも,それを言いきかせるだけで,検証をはじめなかったら,なんの意味もないのである.


4月1日

「1個の要素からなる集合と,その要素とのちがい」について

T . M . Rev . がその例だと思ったのは今日で十回目くらいじゃないかと思う.
このことは多くの人によってくり返し観察されているにちがいないと思うが,誰も言い出す気配がない.

Juggling braids and links という論文を発見.僕はジャグリングはまるでできないけど….
(アブストラクトより) ... We then show that all topological links can be juggled.